これを書いている8月15日は太平洋戦争が終わった日で、会社で黙祷があったり、SNSで終戦記念日がトレンドに入ったりしているが、僕も戦死者に向けての哀れみの気持ちがある。
会社のお昼休みの黙祷は一分間で、一分間静まり返った空間でただ目を閉じて戦争のことを考えていると、追悼の意味とかがぐちゃぐちゃになって、自分で何をしているのかわからなくなってきたので、黙祷が終わってすぐ、ブラウザを開いて「追悼」の意味を改めて調べた。
要するに、死者に悔やんだり、悲しむことが追悼なのであって、無意味に目を瞑って一分間を過ごすのは追悼にならないんじゃないかと思った。
話は少し逸れるが、先週、僕が長くお世話になっている心理士の妻が亡くなった。お通夜に行って、線香を立てて、遺体を見たが、そこにいる遺体は「死んだ」ような感じがしなくて、ただ眠っている人のように思えた。
死への悲しみというのは、死そのものに対してダイレクトに感じるものではなくて、死んだことによって何かを失ってしまったり、二度と会えなくなる現実と直面したりする状況が生まれて初めてそれに対して感じるものだという認識を強く持っていたので、葬式は、死者に対して行う儀式だという反面、自分の感情と向き合う時間をただ全うする儀式だと思った。実際そうだと思う。
コトバンクにもある通り、「悲しみにひたること」が目的なのだから、悲しんでなんぼだということで、今日は国民がたくさん悲しむ日だということだと思う。
8月15日は国民の祝日ではないのはちょっと考えると当たり前のことだと思う。祝日は「祝う日」なのだから、今日お祝いするのは不謹慎だということ。
一方、戦争が終わる事自体は良いことで、祝うべきだと思う。でもそこには、たくさんの犠牲によって戦争を終わらせたという、悲惨なバックボーンがあるので、安直に喜ぶことはできない。人がたくさん死んだのに、「殺し合い終わったぜイェーイ!」というのは、あまりにも礼儀がなっていないように感じる。だから、「戦死者への葬式」と「終戦のお祝い」は分けて考えるべきで、8月15日はネットの投稿に「記念日というのは失礼」という内容が溢れかえるが、一理あると思う。だからこのページのタイトルを「終戦日」として、今日の代名詞を「8月15日」と表現しています。
今日やるべきことを2つにわけたうちの1つの、「戦死者への葬式」について思ったことをまとめる。
僕達の先祖で実際に戦争を体験したのは、団塊やバブル、高度成長の一つ上の、一番近くても「曽祖父母」にあたるので、いまこれを読んでいる君が10代~30代前半なのであれば、ほとんど、経験者と話しことはないことになる。だから僕達は太平洋戦争を資料とかデータで理解するほかなくて、戦争に対して現実味がほとんどない。もちろん、現在進行系で世界各地で戦争は起きているけど、海の向こうで僕達とぜんぜん違う言葉を話す人達が殺し合っている状況について深く考えるのは難しいし、日本の現代人にはそんなキャパないと思う。
実際、終戦したのは80年も前なのだから、教科書で江戸時代の「〇〇の乱」を学習するノリで理解してしまうのは、仕方ないことだと思う。
そこで、ドイツが過去に行ったユダヤ人の大量虐殺を考えてほしい。なんなら、現在進行系で中国が行っているウイグル人への迫害を見て分かる通り、21世紀の現代でも、民族を一斉に殺したり、洗脳したりすることは行われている。世界平和はまだまだかなり遠い。
僕はアメリカが行った日本への核攻撃は、許されないどころか生物実験のようなものだと解釈しているし、もっと早く降伏しておけば良かったというのもなかなか同意できないし、当時の賢い政治家たちが何も考えずに頭を空っぽにして、戦争を続けていたとは思えない。
だから、僕達がこの国で生きていけるのは僕達の曽祖父母が命をかけて戦ったおかげだということが確定している以上、戦死者への追悼が礼儀なように思える。
当時の人々が、後世のために戦った訳では無いとか、実はお金が欲しくて戦ったかどうかとか、そんなのは全然関係ないと思う。国家という組織は、国民が繁栄するために存在しているのだから、どう転がっても、間接的には僕達を幸せにするために戦っている。
それを踏まえて、個人的には、戦死者へ哀れむことと同時に、そこに感謝とか、恩恵のような気持ちがないといけない気がした。むしろ、戦死者への感謝の気持ちが前提で、悲しむべきなんじゃないかとまで思う。
「日本人に殺されたアメリカ人にも追悼をする」という文化はグローバリズムと近い考え方で、国家が外交をするうえでお互いに謝罪をして、お互いの死者へ追悼するというのは良いことだと思うが、原子爆弾で死んでいった何万の人への屈辱だと思う。戦争は良くないことで、仕方なく起こることだという共通認識がなんとなく浸透しているが、どう考えてもあの核攻撃は仕方ないことではない。あれを行わなければもっと死者が増えていたという理論が、アメリカの右寄りの人たちの言い分だが、そんなことを言い出したら日本が真珠湾に爆撃をしたのだって、仕方ない。
だから、「グローバリズムを進めて、世界平和を目指す」となるのもよく分かるが、それをしてしまうと、「日本のために」戦って死んでいった人たちの気持ちを、勝手に「世界平和への犠牲」に置き換えていることになるので、これは良くない。ここはかなり思想が分かれる。右翼と左翼の明確な対立点の一つだと思う。
明言するが、僕はこの左に寄った考え方になかなか賛同できない。太平洋戦争は歴史的にはっきりと、枢軸 vs 連合 という構造ができていて、その結果が今の世界情勢につながっているのだから、アメリカ人への追悼をするのなんてお門違いだと思う。糸満にある平和記念公園の平和の礎にはたくさんのアメリカ人の名前が刻まれているけど、僕は幼いときから違和感を覚えている。戦争はスポーツでもなければゲームでもなく、自分たちの運命をかけてするものなのだから、今日を「葬式」と捉えるのなら、弔う対象の死者が、どう思って死んでいったかを考えないといけない。「死んだ人はみんな可哀想だから、みんなを弔おう」というのは、浅はかだなと思った。原子爆弾によって殺された日本人たちは、子孫がアメリカ兵のお墓に手を当てて涙を流すのを許すはずがない。
そもそも、僕達の先祖が「戦争を平和的に終わらせるために」銃を握っていたという決めつけがかなり失礼だと思う。勝つために決まっている。
当時のナショナリズムは、武力行使によって敵国を従えて自分の国に統一していくという、「植民地」が当たり前の価値観の上で存在してたのだから、平和的に国家の対立が終わるという考え自体が間違いなような気がしてくる。国連も崩壊して、強い国はやりたい放題で、強制労働させまくりの世界情勢で「お互いの国の兵士が、世界平和を望んで殺し合っている」状況を想像するほうが難しい。
という価値観の上にさらに、日本は、東南アジアの開放とその後の始末を見る限り、他国より世界平和に貢献したと僕は思っているので、なおさら、敵国の兵士を弔うことなんてできない。
だから一旦、日本のために死んでいった日本人のための日なんだと、自分の中で折り合いがついた。アメリカはアメリカで葬式をしたらいい。日本は日本の葬式をしたらいい。別にそれが、大きく外交には影響しない。オバマは原爆の映像を見て拍手をしたし、今日はアメリカ中で「Atomic 〇〇!」みたいなパーティーが開かれまくりなんだから、日本人がアメリカ人をあえて弔わないことくらい当たり前に許されるべき。
「終戦のお祝い」についてだが、これを賛否する決定打になる要素が「敗戦」を祝ってい良いのかどうか、ということ。殺し合いが終わることは良いことだけど、戦争に負けることは良いことではない。これを、さらに分けて考えないといけない。
まず、殺し合いが終わることについてだが、誰しも殺し合いなんてしたくない。でも、僕はここに人間の技術による殺し合いの拒否へのジンクスを感じる。
有名な考え方のゲーム理論によれば、「その場の全員が殺し合いを拒んでも、全員が銃を捨てることにはならない」というふうになっているが、戦争もこの通りで、核武装が「反撃のための抑止力」として機能している証拠だと思う。しかも、「戦争を終わりにしたい」という民意があるかどうかは関係なしに、政府の偉い人たちは核爆弾を極秘に製造することができた。そして、B29の中の兵士は、投下ボタンをポチッと押すだけで、あり得ない人数の人々が死んだ。大量殺人を一瞬で行える兵器が存在する現実がある以上、「お互いが殺し合いをしたくない」意見は通用しにくい。
戦争においての過ちの度合いは、いかに残酷なやりかたをしたかどうかという価値基準で判断されている。例えば、民間人を虐殺することが国際法で禁じられていたり、ナパーム弾のように苦痛を与えることに特化した兵器はかなり非難されている。そういった中で、国際的に「原子爆弾を使ったお前らは酷い奴だな」となっても、今のアメリカは堂々と胸を張って「仕方なかった」と言い張っている。戦争は、勝ったほうが正義になるという言説は、民意が戦勝国に対して正義感を抱くということよりも、「敗戦国を弾圧できる = 自分たちの言論がまかり通る」という、構造的な話をしているんだと思う。実際、アメリカ国内でも40%ほどは「核攻撃は間違いだった」と感じているデータがあるんだから、国際的な主張とその国民の意見の乖離を見捨てられないことになる。
のび太とジャイアンは、長い間口喧嘩をしていました。ある日、気が短いジャイアンは拳を握ってのび太を殴り、その日を境に二人の喧嘩は終わりを迎えました。のび太・ジャイアン「喧嘩が終わってよかった~」
↑そんなわけないだろ、、、
ということで、今日をお祝いすることは僕はできません。アメリカの立場なら、勝利してお祝いするのはわかるが、たくさん人が死んで、財産を燃やされた国が終戦を祝うというのは、なかなか考え難い。
「終戦記念日」の「記念」は、日本にとって悪い意味なはずなのです。いい意味なわけはありません。今日は最悪な記念日なのです。最後まで責任を果たした先祖たちに感謝と哀れみを持ち、日本をどう変えていくかをちゃんと考えよう。敗戦しても、僕達には言論が残されていて、家にはちゃんと投票用紙が届くのだから、巨大なコングロマリットや他責思考、集団心理に流されず、自分の意見をちゃんと持って、選挙に行こうと改めて感じた、切ない日でした。だから今日に限っては、外国への謝罪はしなくていいし、靖国に足を運ぶ政治家を非難するのはお願いだからやめてほしい。無礼すぎる。